No.2(2006.3) 隅野 隆徳(専修大学名誉教授)

「憲法改正国民投票法案」批判

〔T〕 国民投票法案をめぐる状況

 自民党の改憲案が2005年10月28日にまとめられ、11月22日の同党結成50年記念党大会で正式発表された。これに対抗して民主党も10月31日に、改憲のための「憲法提言」を発表している。こうした改憲攻勢と並行して、憲法改正国民投票法案等の作成・国会提出の準備が進められている。
 憲法改正の手続きとして日本国憲法96条は、二つの重要な段取りを定めている。

第一段階は、衆参各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が憲法改正案を発議すること、

第二段階は、その改正案を国民投票にかけ、過半数の賛成により承認を得ること、

その上で、天皇による憲法改正の公布となる。そのためには、第一段階について、国会法を改正して、憲法改正案の国会による発議の手続き等を定めなければならない。また第二段階についても、憲法改正国民投票の手続き等を定める法律が必要となる。しかし、これらの法改正や立法はこれまでにされていない。

 これに関して、今日の改憲論者は二つの問題点を指摘する。

一つは、国会が、憲法96条に予定されている憲法改正国民投票法等をこれまで制定してこなかったのは、国会の立法義務に反する「不作為」だとする議論である。
もう一つは、憲法改正の手続き法は、改憲問題の内容とは切り離して、中立の立場で、早急に制定すべきだとする主張である。しかし、これらの議論はいずれも、この部面で現在問題になっている焦点をあいまいにさせるものとして批判されなければならない。

 第一点の「立法の不作為」というのは、たとえば、ハンセン病患者の隔離を定めた「らい予防法」の規定を、日本が長年にわたり廃止しないことが、国際的な医療水準に反する過度の人権侵害として追及され、2001年の熊本地裁判決でその主張が認められたように、憲法における人権保障に照らして、国会がするべきことをしない状態(廃止するべき法律の存在、または、つくられるべき法律の不存在)を是正するための論拠として使われるものである。しかし、憲法96条の「国民投票法」が制定されないために、国民の深刻な人権侵害が起こっていることはない。

 第二点の中立的な改正手続法というのは、内容的にも政治的にも欺瞞的なものである。今日の国民投票法案等が、憲法9条2項を削除して、「自衛軍」の保持を明確にし、アメリカに従って日本を海外で戦争する国家体制にするための、自民党の改憲案等と一体的に、非民主的な舞台づくりの任務を担って登場していることは明らかである。現憲法制定後60年近くの間、憲法改正国民投票法等がつくられなかったのは、通常の法律改廃手続き(=過半数)よりも加重された要件をもつ憲法96条と結びつけて、国民がいく度かの憲法改定の動きを認めず、阻止してきたことによるものである。たとえば、1952年に、現憲法施行後、保守勢力による第一回目の改憲攻勢のなかで、当時の自治庁が「日本国憲法改正国民投票法案」を作成したが、改憲に反対する国民世論の広がりを恐れて、当時の内閣がその国会提出を見送った経緯がある。
 しかし今日では、参衆各議院の憲法調査会が2000年から活動を始めたことに対応して、自民・民主・公明の超党派国会議員による「憲法調査推進議員連盟」がまとめた2001年の法案(議連案)、自民・公明の与党協議会実務者会議で合意した2004年の「法案骨子(案)」(与党案)、そして民主党憲法調査会が発表した2005年の「憲法改正国民投票法制に係る論点とりまとめ案」(民主党案)がある。前二者が、憲法改正国民投票における国民意思の自由で民主的な表明にきわめて抑制的であるのにたいし、民主党案では、その面での一定の自由を認めている。ただし、民主党が前記のように2005年の「憲法提言」で改憲の立場を明らかにし、また衆院憲法調査会で、憲法改正手続法制の整備に賛意を表わしているなかで、自民・公明両党との調整を通じ、どのような姿勢をとっていくかは、国民からして大いに注目されるところである。
 なお、これらの「憲法改正国民投票法案」にたいする批判は種々なされているが、なかでも2005年2月に日本弁護士連合会によって出された、与党案に関する「意見書」は、法律家の立場からの批判として、参考になる。

〔U〕  国民投票法案の内容

(1) 国民投票の周知期間等


 前記二者の法案等には多くの問題点があるが、その一つとして、国会が憲法改正を発議して国民投票に付するまでの期間につき、議連案が60日以後90日以内としているのにたいし、与党案は、国民投票と国政選挙とは別個に行われるべきとの観点から、30日以後90日以内の内閣の定める期日とする。また民主党案は、60日以後180日以内とする。
しかし、憲法改正という個人、社会、そして国政の基本にかかわる問題の検討を、国民の間に周知させ、国民の十分な議論を通じて、的確な判断をするには、とくに与党案では、あまりに短い期間といわなければならない。むしろ、国民の間での十分な検討を恐れて、短期間での決着をすら希望しているのではないかと疑うほどである。
 また、国民投票の投票権者につき、前二者は、国政選挙の投票権者と一致させるとして、20才以上の日本国民とする。この点で民主党案は、国政選挙権への対応と整合させ、基本的に、日本国籍をもつ18才以上の日本国民としていて、与党案との調整が問題になっている。しかし、国政選挙についても、今日の世界で、18才以上に選挙権を認めるのが一般的であり、日本はその点で、国際的に立ち後れている。しかも憲法改正となれば、将来の国政に大きなかかわりをもつ青年の国民投票参加は不可欠といえ、その点でも、議連案・与党案は批判を免れない。

(2) 投票方式

 国会による憲法改正案の発議にあたり、もっとも問題になる点の一つは、前記二者の法案等において、国民投票の方式につき、改憲発議の都度、別に法律で定めるとしていることである。とくに憲法の改正点が複数にわたる場合、条文または項目ごとの投票にするか、あるいは、全体をまとめて一括で投票するのかを、国会の多数決による政治的判断に委ねるとする点が問題となる。自民党では、改憲の焦点である憲法9条の改定については国民の反対が強いことから、「新しい人権」として、プライバシー権や環境権等の導入とセットにして、焦点に対する国民の反応を躊躇させたり、あいまいにさせることが考えられる。ただし、自民党の改憲案では、プライバシー権や環境権等について、人権として明確にされていない。その点で、憲法学説では、「新しい人権」は、憲法13条の、国民の幸福追求権等に基づいて、明確に根拠づけられており、問題は、立法や裁判で具体化されることにあるとしている。そして、その具体化に反対してきたのが、政府・与党であることも明らかである。しかし、それ以上に問われるべきなのは、憲法改正の対象条項に関し、個別に、主権者である国民が明確に意思表示することは、憲法改正に当たっての原則の問題であり、国民として国会にも譲ることのできないところについてである。その点で、日本国憲法96条の歴史的源流ともなっているアメリカ合衆国の諸州では、改憲の投票方法につき、条文ごとに用紙に賛否を記入する分離投票を行なっている。たとえば、ミシシッピー州の憲法では、「同時に一つ以上の改正が提案されるときは、人民が各改正案別々に賛否の投票をすることができるような方法と形式で、提案されなければならない」(第15条273節2項)と定めている。

(3) 国民投票での「過半数の賛成」の意味

 憲法96条では、国会が発議した憲法改正案につき、国民投票で「過半数の賛成」による国民の承認を、憲法改正のための要件としている。この「過半数」の判定をどうするかが問題となる。学説や制度上ではいくつかの捉え方があるなかで、前記二者の法案等では、「有効投票総数の過半数」という、一番狭めた基準を採る。そのほかに、憲法改正国民投票に投票した選挙人総数の過半数と捉える型と、また、有権者総数の過半数とする型もある。国民意思の尊重という観点からすると、第三の型は確実であるが、現実の運用では、きびしい基準とする評価もある。他方、第一の型では、白票等を無効投票とした上で、それらを除いた有効投票総数の過半数で、判定しようとする。この捉え方については、国民投票に参加したが、積極的に賛成せず、白票を投じた者を無効票とする扱い方に強い疑問が出される。これにたいし、第二の型の投票総数過半数説の立場からは、憲法改正という国政の重要問題については、積極的に賛成の意思表示をした者がその投票総数の過半数である必要があるとして、今日の日本の憲法学説では有力になっている。
 このことに関しさらに問題なのは、前記二者の法案等では、最低投票率(国民投票の成立案件)が定められていないことである。前述の「過半数」の捉え方と結びつき、そこでは、たとえば多くの有権者が棄権すれば、きわめて少ない投票率、したがって、低い有権者比で憲法改正がなされる可能性が考えられる。しかし、それでは法的安定性が低く、政治的、社会的に将来に禍根を残すことになる。それを防ぐためには、国民投票の最低投票率につき、たとえば有権者の二分の一というような限定付けが必要と考えられる。

(4) 国民投票運動の規制問題

 憲法改正についての国民投票では、国民の生活と権利・自由に深くかかわり、同時に国家・社会のあり方に結びつく重要な問題であるだけに、国民には十分な情報提供がなされ、国民の間での議論が広く深く行なわれるように、表現の自由は最大限に保障されなければならない。
 ところで、「与党案」は「議連案」に拠って、国民投票運動は基本的に自由であるとの原則の下に、公正な国民投票のために必要最小限度の規制のみを整備したとする。しかし、そこでは、国際的にみても異常といえる日本の公職選挙法上のさまざまな規制を継承するのみならず、それらをいっそう強化するものとなっている。
 たとえば、国民投票法案で規制の対象となる「国民投票運動」を、「国民投票に関し憲法改正に対し賛成又は反対の投票をさせる目的をもってする運動」と定義し、このことにつき、「議連案」の「法案要綱」で、過度に広汎な規制となるおそれがないかを検討の必要があると指摘する。それほどに、法的には規制要件が不明確で、濫用の危険があり、国民の間で憲法「改正」についての自由な意見交換もできない状況の出現が考えられる。
 その法案等が掲げるものとして、一般の公務員や教育者が職務上の地位を利用して行なう国民投票運動の禁止がある。公務員には現憲法99条により憲法尊重擁護義務がある。しかし、自民党の改憲案のように、現憲法の平和主義を否定して、海外で戦争のできる国家体制にしたり、あるいは、国民の基本的人権を大幅に制約できるようにする憲法「改正」案についての国民投票に直面するとき、公務員はこの法的義務の「抵触」ないし矛盾に立たされる。その場合は、言うまでもなく憲法99条の義務が優先する。それは、憲法の最高法規性からの要請であり、また、そもそも憲法96条の規定は、後に指摘するように、現憲法の原理・原則を否定する「憲法改正」を予定していないからである。
 また学校教育法上の教員にとっては、日本国憲法が児童・生徒・学生等にとって身近な存在であるだけに、子どもの学習権に基づき、教育の自由と学問の自由を通して、憲法への真摯な取り組みが求められる。したがって、日本国憲法の基本原則を脅かすような「憲法改正」案にたいしては、国民投票法(案)上の投票運動禁止規定よりも、憲法99条や、あるいは、憲法12条等の基本的人権保障の立場から対処することが重要であろう。
 さらに、マスコミや放送事業者にたいする「国民投票運動」の規制のもつ意味は、いっそう深刻なものとなる。たとえば、「議連案」の「法案」69条は、「新聞紙又は雑誌は、国民投票に関する報道及び評論において、虚偽の事項を記載し、又は事実をゆがめて記載する等表現の自由を濫用して国民投票の公正を害してはならない」と、不明確な表現をする。その虚偽報道等の禁止の関係で、「法案要綱」は、「例えば、憲法を改正した場合あるいは改正しなかった場合に、どのような事態が生じるかについて予想を記載するような行為は、一般的には、虚偽の報道にはあたらない」とする。このような例示をしなければならないほど、「虚偽の報道」の認定は一義的ではなく、それだけに濫用の余地ある規定案といえる。しかも、その違反行為にたいする罰則として、「二年以下の禁錮又は三十万円以下の罰金」を掲げている。このような法規制が、マスコミ報道にたいして、一定の萎縮的効果をもたらすことが十分に考えられる。
 また、「法案」70条3項では、「新聞紙又は雑誌の不法利用等の制限」として、「何人も、国民投票の結果に影響を及ぼす目的をもって、新聞紙又は雑誌に対する編集その他経営上の特殊の地位を利用して、当該新聞紙又は雑誌に国民投票に関する報道及び評論を掲載し、又は掲載させることができない」を掲げ、その違反者にたいしては前記と同じ罰則をもって臨んでいる。この規定案は、新聞・雑誌の編集者等にたいし、大きな脅威となって襲いかかってくるであろう。「議連案」の「国民投票法案要綱」では、「法案」70条1・2・3項は、公職選挙法にならい、マスコミを買収して国民投票に関する記事を掲載させるような行為等の不当な行為を禁止するものだとする。しかし該当する公選法148条の2、1・2項に明記されている「饗応接待」の語が、上記規定案からは抜け落ちており、マスコミの「買収」関係が不明確になっている。その上、公選法148条の2、3項では、候補者の中から当選人を選ぶ公職の選挙と関係させて、「当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもって」と、新聞紙・雑誌の編集等の地位利用が、個別的で具体的に限定されて規制されるしくみになっている。ところが、「議連案」の「法案」70条3項では、その公選法の規定を、憲法改正の是非を問う国民投票の規制に単純に持ち込もうとするところに大きな矛盾がある。すなわち、「法案」同条項では、「国民投票の結果に影響を及ぼす条約をもって」と、国政一般に関する領域にわたっており、それだけ新聞紙・雑誌に掲載される報道と評論の規制は広範囲に及ぶことになる。そして、そもそも「国民投票の結果に影響を及ぼす」ということは、直接・間接さまざまな度合いで考えられるし、国民だれしも、国民投票運動期間を問わず、自由な意見表明を通じ、そうした意図を発揮させようと考えて当然である。マスコミ従事者の場合は、一般国民よりもいっそう使命感をもって、憲法「改正」国民投票という国政の重大問題につき報道し、評論することが考えられる。それは、マスコミ従事者の「不法」な地位利用とはとても言えるものでなく、正当な言論活動そのものといえるであろう。このような公然たるマスコミの全面規制案をもって憲法「改正」国民投票法案を作った憲法調査推進議員連盟、そして、その案を受け容れた与党協議会実務者会議の真意がどこにあるのか、本当に疑われるところである。そこからは、「憲法議連」や与党による憲法「改正」の目標とするものが、言論・表現の自由の保障されない、軍事・専制国家であることを想像するのに十分な証しを示しているとも考えられる。
 なお、放送事業者についても、日本放送協会および民間放送にたいし、国民投票に関する虚偽報道等の禁止を掲げ、その違反にたいし同様の罰則をもって臨んでいる。

(5) 憲法の全面改正は認められるか。また、国民の対応は。

 憲法改正国民投票の対象として、憲法の全面改正は認められるかという問題がある。とくに、自民党の改憲案である「新憲法草案」が、「新しい憲法を制定する」と憲法前文案で言ったり、現憲法の基本原則である平和主義、基本的人権の保障、議会制民主主義、地方自治等の根本的転換を、憲法改正手続きによって進めようとしたり、あるいは、憲法96条の改正手続要件の緩和を打ち出している状況にあって、このような憲法改定を法理論的にも、また、現実政治の問題としても、どのように捉えたらよいかが問われる。
 アメリカ独立戦争とフランス革命の所産である近代憲法では、その基本的価値として、基本的人権の保障と権力分立、そして国民主権ないし人民主権をおき、それらと結びつくいろいろな原則(たとえば、法の下の平等、政教分離等)を樹立し、発展させてきた。主権原理の転換(君主→国民、国民→人民)を伴う体制変革に当たっては、革命や戦争、あるいはクーデタ等の結果として、新憲法が制定された。その場合、憲法制定権力をもつ国民ないし人民による憲法制定議会代議員の選挙・招集、そして、同議会での新憲法の採択となることが多い。  ところで今日、自民党は改憲案で「新憲法制定」を掲げるが、日本が現在、革命的状況にないことは明らかである。自民党は1955年の結成時には「現行憲法の自主的改正」を掲げているから、それ以前の「自主憲法制定」論に影響されたのか、今回、自民党として初めての改憲案作成に当たって、「新憲法制定」を言う。しかし、手続き上、本格的に憲法制定議会の選挙まで構想しているとは考えられないし、その動きもない。むしろ現憲法96条の改正手続きにより、現憲法を否定し、あるいは変質させることを考えているといってよい。
 憲法改正という場合、通常は、近代憲法の基本原理・原則を継承することが前提となる。そのことにより法秩序の安定性が維持され、また展開することになる。法理論上、憲法改正権は、憲法制定権力(pouvoir constituant)をもつ国民ないし人民から、議会に委託され、議会は自らの拠って立つ憲法原理・原則の枠の中で、その権限を行使するとされる。議会や内閣・裁判所、その他の国家機関は、憲法によってつくられた権力(pouvoir constitue)であるのにたいし、憲法改正権は「制度化された憲法制定権力(pouvoir constituant institue)」として、議会等の国家機関の権力よりも上位に位置づけられる。したがって、議会による憲法改正権の行使は、憲法制定権力、そして、それに基づく憲法改正権によって枠付けられる。それが「憲法改正権の限界」として、学問的に検討されるところである。ただし、学説上、憲法改正の無限界説をとり、憲法改正規定により、原理的に異なる新憲法の制定も可能とする見解もあるが、近代憲法の歴史的構成を重視する観点に立つと、その見解の根拠は弱いものとなる。
 さて、自民党の改憲案が憲法前文の箇所で、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義等の基本原則につき、「不変の価値として継承する」と指摘するものの、実質的には、現憲法の原理・原則にたいし大きな挑戦をし、全面的な改定に踏み切っているのを、どのように考えたらよいであろうか。自民党の改憲案の内容的な検討は別の論稿に譲り、簡単に問題点だけを指摘すれば、現憲法の平和主義にたいして、9条2項を削除し、自衛軍の保持を明記して、集団的自衛権の行使を含む、海外で戦争する国家体制にしようとする。また基本的人権の保障については、権利・自由よりも義務と責務を強調し、個人を超えた「公益及び公の秩序」の枠内での権利・自由へと変質させる。その他、議会制民主主義に関しては、首相や内閣の権限を強化し、国会の地位・役割の形骸化を図ろうとする。地方自治についても、住民自治の領域を縮小し(現憲法95条の削除)、国と地方自治体の関係を、現憲法の対等・並立から、相互協力義務を課して、自治体の従属関係を明らかにしようとする。さらに、憲法96条の改正規定につき、憲法改正の発議を衆・参各院の一方だけでよくし、憲法改正案の国会での議決要件を、現憲法での三分の二から、衆・参各院の総議員の過半数の賛成に緩和する。そのことにより、憲法改正案の国会での審議が、通常の法律の改廃手続きと同等となり、国民の中の少数意見や国会内の少数勢力が、憲法改正案に反映される程度は減少する。そのことは同時に、憲法改正案についての国民投票での論議と判断を低下させることになりかねない。
 このように観てくると、自民党の改憲案は、現憲法の基本原理・原則の否定ないし変質を目指しているといわざるをえない。それが憲法96条の改正手続きを通じて改憲に臨もうとしても、「憲法改正権の限界」を超えるものということができる。そこで目指されている方向は、国民の平和と安全を脅かし、人権を抑圧し、権力担当者には自由な権力行使を可能にさせる憲法体制ということができる。こうした体制変革を意図することは、憲法上はまさに「反革命」の名に値する。
 今日の改憲攻勢が、憲法99条に定める憲法尊重擁護義務を負う国会議員や国務大臣等により公然と行なわれていることは重大である。この事態にたいして、国民は黙視せずに、主権者として、言論・出版・集会・結社等のさまざまな表現の自由を使い、また憲法や法律上の諸手段を駆使して、発言し行動することが求められているといえる。日本国憲法の構造からいえば、99条と12条は対応する関係になっている。すなわち、権力担当者である公務員にたいしては、明確な憲法尊重擁護義務を課し、他方、主権者である国民にたいしては、憲法が保障する自由・権利を努力して保持・行使し、国政の監視を求めている。ところが、権力担当者が憲法尊重擁護義務を無視し、憲法秩序ないし憲法体制の否定もしくは破壊を意図し、そのための行動に出るとき、国民は、憲法12条に定める「不断の努力」をいっそう強く、全面的に発揮することが求められることになる。それは法理論において、「抵抗権」として論じられてきた問題である。日本の戦後史において、1952年の破壊活動防止法反対闘争や、1960年の日米安保条約改定反対闘争等では、憲法12条に基づく「抵抗権」が一つの根拠とされた。今日では、それらの歴史的経験も踏まえ、現在の改憲攻勢にたいする、自覚的で民主的な、そして多様な反対運動の展開が必要となっていると考えられる。
 また、国民投票法案等に関する与党等の動きにたいしては、国民の側として、現在の改憲案の提示やキャンペーン等と一体的に捉え、改憲問題の前哨戦ともいうべき意味をもつものとして臨むことが必要であろう。現在の国会内の改憲反対勢力は少ないけれども、国会での審議活動と、憲法9条改定に反対する社会での多数世論(注1)と結びつけて発展させることが重要である。それにたいし、国会内の改憲反対勢力を無視して、憲法改正国民投票の場だけで改憲策動に対抗し、それを「粉砕」すればよいという考えはとるべきではない。国民の大きな反撃で国民投票法案を作成させず、また、国会に上程されても廃案に追い込むことが大切である。改憲案が明確に提示された今、改憲攻勢にたいする反対運動をいっそう大きく発展させることが求められているといえる。(注2)

(注1) 憲法改正問題に関する最近の新聞の世論調査として、2005年10月5日付の「毎日新聞」は、次の発表をする。
      今の憲法を改めることに、
        賛成 58%  反対 34%
      憲法9条を変えるべきだと思いますか。
        変えるべきだ 30%
        変えるべきでない 62%
(注2) 本稿は、『学習の友』2006年1月号(629)に掲載された、拙稿「憲法改正のための国民投票法ってなんですか?」を基にして、修正・加筆したものである。